昨日の夜から今朝までかかって小説を書き上げた。邪馬台国の真実に迫る一大歴史小説である。
あまりの長さに読む気をなくされる可能性が強いとは思いますが、私の邪馬台国に対する考え方のすべてを込めています。
どうか、めんどうでも最後までお読みいただきたい。

「小説 邪馬台国は永久に・・・」

第一話 公孫氏

「なに、永寧侯に封じるだって、馬鹿にしやがって、・・・」
遼東に勢力を持つ公孫度(たく)に対し、魏の曹操は武威将軍の称号を与え、永寧侯に封じた。
魏・呉・蜀の三国が会い争う中、公孫氏はこっそりと勢力を伸ばし、いまや旧燕国の領地を思わせる成長を遂げていた。それでも漢時代、楽浪郡の下級官史時代を知っている曹操は彼を「その程度で十分」と考えていたのだ。

公孫度は子供たちに、「いいか、我々はこの乱世を生き抜くため、魏とは決してまともに戦ってはならんぞ、帯方にいる韓人や、半島の先にいる倭人と仲良くし、背後を固め、扶余と高句麗とも婚姻関係を維持するんじゃ、その上で呉国とも連携をとれ、いいか、ただ、呉との連携は絶対に知られてはならんぞ。」
これを言い残すと公孫度は亡くなった。
後を継いだのは公孫康である。
この時代、曹操が烏丸討伐を行い、袁尚らが追われ、公孫氏の元へ逃げ込んできた。
「なに、袁尚だと?」「はい、助けを求めております。」、「うーん」、公孫康はニヤリと笑い、「曹操に贈り物が出来たわい、即刻首をはね、曹操へ送り届けるが良い。」
表面上、公孫氏は魏ともめる事を望んではいなかった。
曹操はこれを聞き、「なるほど、馬鹿ではないな。匿ったならひとおもいに亡ぼしてやったんだが・・・」
この公孫康の死後、跡を継いだのは弟、公孫恭である。彼は軟弱で、家臣たちは息子の公孫淵を望み、結果、恭は廃され淵が新しい将軍に登った。

公孫淵は武者ではあったが、公孫度の遺言を忘れていたのだろう、ますます強大になっていく魏に対しまともに対抗する気であった。
淵は呉の孫権に使者を送った。
「なに?公孫氏から使者だと?」「はい、同盟を求めててまいりました。」
「遼東だな?帯方のほうの状況はどうだ?」、「はい、先日倭に使節を送り、現地の状況は把握しています。遼東の安全は帯方、すなわち遼東半島次第で、住民の多くは韓人であります。馬韓、弁韓、辰韓と別れ、各君長はおおむね公孫氏には従っています。というか・・・、倭人ですが、半島の先端、卑沙(旅順)に卑弥呼という巫女がいます。もうかなりの歳なんですが、大変に評判がよく、倭人の本国、筑紫(現在の平壌)の王よりはるかに好かれております。」
「なに、卑弥呼というか?」
「今でいうなら田中真紀子みたいなもので、しゃべりだすと止らないし、またこれが面白いんですわ。父親が、この子が男だったらな・・・・と残念がったと言いますわ。」
「まあいいわ。卑弥呼だな、覚えておこう。それより淵だわさ。」「淵はまだ若いのでやや心配ですね。卑弥呼を怒らせると遼東半島全体を敵に回す事になります。」
「卑弥呼を怒らせるだと?」「はい、もうおばんですので上手にやればいいのですが・・・」
「わかった、淵に使者を出してやれ、一万の兵士と金銀たっぷりのせてな。途中、卑沙(旅順)の卑弥呼のところへより、資丸堂の「梅椿」を俺の気持だといってわたしてやれ。ははは、卑沙(旅順)はかなめだからな・・・・・」
卑沙は旅順である。当時の航海技術では遼東半島の先端を制したものが制海権を握るといってよい。その地のの重要性は今でも何ら変わってはいない。

呉では閣僚級の張弥たち重臣と、賀達将軍が答礼使として遼東へ向けて出発した。
呉の宰相以下老臣たちはことごとく反対だった。孫権も公孫氏を信じすぎたのであろう。
船団は途中、卑沙(旅順)に入った。
「これは呉王から姫へのご挨拶でございます。」
「なんなのじゃ?」「はい、梅椿でございます。日本では美しい方は皆このクリームを使っております。」
「えーえ、なんと。それって、あの田中麗○が使ってる奴か?」、「はい、仲間由○恵もコマーシャルにでてます。」、「ううう、うれぴー。それで、今日はなに用じゃ?」
「はい、姫様、これから私共、公孫淵のところへ参りますだ。何とど今後ともよろしく。」
「そうじゃの、本国の倭王は公孫氏と不仲じゃが、私はどっちでもええよ。それより、上手くいったら今度は美白化粧品を持って生きてくれるかのう?」
「えー、もちろんですとも、きっと喜んでいただけるよう努力しますよ。」
卑弥呼は上機嫌で彼等を送り出し、自分の部下を同行させ、口ぞえをする様に申し付けた。
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第二話 うらみが・・・


彼等の大船団が卑沙(旅順)から営口へ運行してゆくのが沿岸からでも確認できた。それを見た公孫氏の配下の者は早馬で城へ連絡をした。
「たいへんです、殿。呉国の船団がわが港を目指しています。しかも大船団ですぞ。」
「なに、大船団だと?まずいな、魏の密偵に見つかるな。」、「はい、あれだけの船団を見逃す事はないかと・・・」
「むー、孫権も思慮がたりんのー、これはちょっと困ったことだ。」
「殿、逆に利用しましょうよ。どうせ、呉は当てになりませんぞ」
「うん、そうすべきだな。」

そんな話がされているとは知らない呉国の使節団は、港から隊列を組み、数日をかけ本拠地のある襄平に到着し、城門の前で開門を要求した。
「開門せよ。我等呉国より参った使節ですぞ、王よりの国書を持参いたしましたぞ。」
「承知いたした。使者と側近の者以外は外で待たれよ。」
「なんと申される。お宅からの使者に対する返事を持ってきたというに、何たる無礼か。」
「無礼はどちらじゃ。1万の兵を同行されるとは迷惑千万、すぐにお引取り召されよ。」
「このままで済むと思うなよ。」、呉の使者、張弥はそう叫ぶや城壁にいた兵から一斉に矢が仕掛けられ、
呉軍はハチの子をつつかれたように大混乱に陥ってしまった。
結局、答礼使の張弥と許晏は王の下に連行され、即刻首をはねられてしまった。
そして大量に携えてきた財宝はすべて没収された。呉軍の兵士は捕虜として遼東(今の瀋陽)へ送られた。
公孫淵は呉の使者の首を魏の明帝へ送り届け、自分の身の潔白を証明した。
魏帝はよろこび、公孫淵を楽浪公に封じ、大司馬の称号を与えた。

「のう、仲達、淵をどう思うかの?」、明帝は司馬仲達に微笑みながらたずねた。「殿、我等の諜報網は完璧ですよ。淵はひそかに使者を送り、わが国を包囲しようとした事は間違いありません。しかし、孫権がまさかあれほどの船団を送るとは思っていなかったと思います。我等が監視していることも承知しているので、この際、我等に忠実である事を示そうとしたのかと・・・。」
「ははは、孫権は怒るじゃろうな・・・」、「かえって我がほうには幸いです。これで、孫権と公孫氏の同盟はありえませんな。」、「そうじゃな、そろそろかな・・・」、「はい、そろそろですな。」
「どうするかの?」、「やはり、陸と海からですな。」
「すると、遼東半島が問題であるな?」「遼東半島の先端に卑弥呼という倭国の女王がいます。彼女を説得すれば遼東にいる韓人たちはおそらく従うでしょう。また、筑紫(平壌)の倭本国はもともと公孫氏とは仲が悪いので、我々の邪魔はしないと思います。」
「卑弥呼と本国の王との中はどうじゃ?」、「よくないですね、ただ、家臣の間ではやはり女王の権威はたいしたもので、彼女を神のごとく敬っています。」
「そうか、ここはそちの出番じゃの。」、「はい、おまかせくだされ、少々時間をいただきましょう。」
このころ明帝は体調が悪く、都には次の王位を狙うものたちが策謀をめぐらし始めていた。帝としては一番の実力者である司馬氏を近くに置き、治安を保って欲しかったのである。そこで、遼東の作戦は魏の忠臣、母丘倹に命じるつもりであった。
さて、司馬仲達は遼東半島の謀略を開始した。まずは、卑弥呼からである。

第三部 卑弥呼のよわみ

「鏡よ鏡、この世で一番美しいのはだれじゃ?」
生物学上女性に属するはずだが、よる年並みには勝てない。もうすでに70歳に近い彼女は、無理なダイエットのおかげで顔には張りがなく、目じりのしわ、首筋のたるみ、すべてはそろそろである事を示していたのだ。

「おい。答えんか、この鏡め・・・」、持っている茶碗を鏡に向かって投げつけようとするのを側近の裕仁は思わず止めた。「姫、何をなさる。鏡こそ姫の宝。これが割れた時はすべてが終わるのですよ。」
当時、鏡というのは一般の人たちは誰も知らない秘密の道具であった。彼女がまだ若くてきれいだったころ、海辺で貝を拾っていた時、難破船のそばに落ちていたものを偶然手にしたのである。青銅で出来た丸い鏡はサビだらけで何であるのかはまったくわからなかった。大事に持ち帰った彼女はそれを大事にし、毎日布で磨き上げた。その鏡には穴があいており、その穴に勾玉のネックレスを通し、首にかけてみた。
ある朝、父である大王の横に立ち、日の出を迎えていた。太陽が顔を出すや、今までにないことがおきた。大王の前に並んだ住民達が今まで見たこともない様子でひれ伏したのである。
「ひぇー、も、もったいない」、住民達は姫の胸から太陽が登るように見えたのである。彼女の首からかけた鏡はきれいに磨かれ、登る太陽の光を反射し、住民は姫が太陽そのものに見えたのである。
それ以来、遼東半島の韓人はもとより、諸国の人々も彼女を太陽の巫女と信じたのである。
大王には長男がいたが、大王が死亡し即位したものの、住民も家臣も姫を神としてあがめていたのだった。

遼東半島の先端、旅順を中心に倭国が発展していたが、韓人におされ、多くの住民は平壌へ移っていった。女王は韓人にも尊敬されていたので彼女は小さいながらも独立した国、大和を統治する事になった。

その彼女もよる年波には勝てない。楽しみにしていた梅椿は彼女の元に届かなかった。公孫氏が呉国の使者を殺したからだ。「うーん、公孫淵め、許さんぞ、私の希望であった梅椿、あれがあれば私だって、仲間みたいに・・・・」、彼女は公孫氏に恨みを感じていた。そんな時、魏からの使者が訪ねてきた。
「姫、相変わらずお美しい。さすがに魏まで聞こえてくるだけの事はございますな。」
「ふふん、なに言ってんのよ、なんの用なのよ。」
「実は、中国三千年の秘薬をお持ちしました。天然アロエ配合、お肌ツルツル、絶品ですぞ。」
「ええ?なんと、それが中国の秘薬と申すか・・・」「はい、さようで」
「うんうん、それはよいぞ。梅椿よりよさそうだ。うん、気に入った。何でもいう事を聞くぞ、なんなりともうしてみい。」
「はい、ありがとうございます。実は・・・・」
「なんじゃな?」「じつは、明帝から形ばかりですが、朝貢にお越しいただきたいと・・・」
「なんと、朝貢ってか?」
「はい、そう申しまして・・・」
「馬鹿いってんじゃないよ、何で私が魏に朝貢など・・・」
「だ、だから、形だけで・・・、中国三千年のメンツという奴で・・・、その代わり、化粧品10年分差し上げます。」
「形だけとはいえ、私は行かんぞよ。」「ああ、もちろん大丈夫です。行ったことにさえしていただければ。」
「そうか、そういうことだな。」

魏の使者はひそかに韓人の君長を回り、卑弥呼が魏に朝貢をした事を告げ、公孫氏が滅びた後は彼等の自治を認める事を約束した。公孫氏の都、襄平城の周りは淵の知らないうちにすでに魏と内通していたのだった。

第四部 公孫氏滅ぶ

景初元年(237)、明帝は幽州刺使母丘倹に命じ烏丸や鮮卑の兵を率い、遼東に駐屯し公孫淵に出頭を命じた。
「さまざまな疑惑があるゆえ、都にて釈明せよ」との命令を受けたものの、公孫氏は出頭すれば殺されることは十分に理解していた。
彼は覚悟を決めた。そして淵は自らを「燕王」と称し、またもや呉に使者を送った。
孫権は笑いながら、「同盟するといってやれ、負けるに決まっているが・・・」

明帝は238年正月、仲達を呼び、遼東討伐総司令官に任命し、公孫氏を滅ぼすよう命じた。
「四万の兵でよいか?」「はい、十分ですが・・」
「どれぐらい時間がかかるか?」
「そうですね、行くに100日、攻めるに100日、帰るに100日、休息に60日、都合一年ぐらいかと・・・」
「船で行くとなると旅順を押えねば、そして半島にいる韓人たちは公孫氏に従うのではないか。」
「旅順の卑弥呼は話はついています。韓人は卑弥呼に従います。倭国は動かないはずです。」
「さすが、仲達。では、呉は動くかの?」
「公孫氏と呉は仲が悪いですから動かないと思いますが、念のため海上の監視は命じておきましょう。」
「うん、そうか。たのんだぞ。」

さて、ここで推理が必要になる。つまり、公孫氏の居城、襄平が一体どこなのだということ。
「楽浪は古の朝鮮国なり、遼東にあり。」と中国の史書にある。つまり、楽浪公という以上、公孫氏は遼東、即ち現在の瀋陽とみるのか?
しかし、当時高句麗は徐々に南下しており、瀋陽はすでに高句麗が支配していたのではないか。
史実からみて、営口についた魏軍は川をさかのぼり遼陽あたりで決戦する、このあたりではなかったのか、これは憶測とするしかない。
当時、高句麗は東川王である。基本的に公孫氏と仲がいいとは言えないが、魏の母丘検とは共通の敵であったから、瀋陽あたりで陸上から行軍してきた魏軍に対し、高句麗が圧力をかけていたことは間違いないであろう。また、倭国の本国、平壌=東倭とする、と高句麗は連合していた事が高句麗本紀から伺えられる。

さて、仲達が都を出発し船団が卑沙に着いた。そこへ卑弥呼が出迎えに来た。
仲達は卑弥呼に挨拶し、「姫、聞いてはいましたが、まことにお美しいですな。いやはや、私が独身ならすぐにでも・・・」「いやですわ、将軍は正直な方ですね・・・」と言いながら卑弥呼は案外おせいじには弱かった。
「姫、今から我々は公孫淵を亡ぼしますぞ、明帝からは公孫氏亡き後、韓人を統治するのは姫であると命じられております。戦いの後、明帝の宮殿にご案内いたします。何も心配はありませぬ。まあ、ゆっくりご覧下さい。」「おうそうか、将軍は本当に親切でやさしいのー」

現実はそんな甘い将軍ではなかった。彼は遼東の高句麗に密書を送っている。
「幽州から出動する母丘検を遼河で釘付けにしてもらえないか。協力してもらえたら戦後、高句麗の遼東支配を認める。」という秘密の約束である。
この密書を読んだ東川王は、「おい、魏も割れておるな、仲達と母丘検はどうも仲が悪いと見える。さて、どうしたものか・・・・」、「殿、刺使の母は明帝の忠臣です。おそらく明帝の命は長くないのですでに後継争いが始まっているようですな。」、「そういうこっちゃ、で、どっち?」
「いうまでもないこと、仲達一門の力は他を圧倒しています。彼が遼東を譲るというのは朗報ではないですか。ましてや母丘検が遼河を渡るのを見逃す事も出来ません。」
「ということか・・・。」
結局、母丘検は高句麗の妨害で襄平落城に間に合わず、大きな恥をかくことになる。このことで高句麗に対し深く恨みを残す事になる。
さて、仲達はもうひとつ密書を送った。相手は倭国にである。倭国王は現在の平壌、当時は筑紫と呼ばれていた。もちろん男王である。彼は卑弥呼の存在が実に目障りであり、できることなら・・・と考えていたのは間違いない。そこへ司馬仲達からの密書が届いた。
「倭国には一切手を出さぬゆえ、今回の戦闘には中立でいて欲しいと言っております。」
「どうも、遼東半島に郡を設置するようですぞ。」
「なんと、うわさによると韓人たちは自分達の国が出来ると喜んでいたではないか。」
「ははは。仲達をなめたらあきません。この際、卑弥呼に消えてもらうのもわるくないことかと・・・・」
「ふーん、おぬしも悪よのー。」

仲達が遼東に上陸したのは228年の6月、公孫氏は海城に大軍を用意し、そこで決戦する気であった。しかし、魏軍はまったくそれを無視し、まっすぐ襄平、即ち遼陽へ向かった。兵を分散した公孫淵は城に閉じこもり長期戦を覚悟した。襄平城は魏兵に囲まれてしまった。
「なに、遼東の恐さを知らんのだ。冬まで持たせればこちらのものよ。」
・・・・ところが冬までの準備が出来ていなかったのは公孫氏のほうであった。食糧がないのだ。

「おい、君長たちはなぜ応援に来ないのだ。卑弥呼はどうしたのだ。」、淵は怒鳴り散らした。
「将軍、実は・・・・どうも仲達と密約を交わし、遼東の自治を与える見返りに応援を出さない事に・・・」
「あやつめー、うーん、何とか講和に持ち込めんものか・・・」
城内の食糧は尽き、死者が相次ぎ、淵はやむなく使者を送り講和を申し入れる。
「なにをいまさら。無条件降伏以外選択の余地はないではないか。」、仲達は使者に大声を出した。
実のところ公孫氏は母丘検と良好な関係を保っていたので魏軍に対し甘く考えていたようだ。

八月、遂に城は落ちる。公孫淵と息子の脩と親衛隊は囲みを破って逃げようとしたが、途中でつかまり切り捨てられた。城内に入った仲達は京観を築くと伝わっている。つまり、死体を積み上げ山にする事を京観を築くという。虐殺をしたのである。死者は七千人という。

凱旋する仲達は途中で卑弥呼のところへより、大夫難升米を使者として、新しく任命された帯方太守劉夏とともに明帝の下へ朝貢するように命じた。倭人伝では6月と書かれるが、6月に帯方郡はまだなかったのであるから、実際は9月以降だったはずである。すなわち、宣帝(即ち仲達)が公孫氏を滅ぼすや、なのである。
初めて女王の使者が明帝に面会するのは正しくは11月、12月に明帝は亡くなるのだからこの面会の時、帝はかなり弱っていたはずである。
卑弥呼は「男の生口4人、女の生口6人他」を貢いだ、明帝は卑弥呼に親魏倭王の称号を送り、「仮の金印紫綬を仮授する。帝は卑弥呼に対し、「汝ははるか遠方の国にもかかわらず使いを遣わし、朝貢をしてきた。私は汝の忠孝をはなはだ哀れに思う。」と優しい言葉を送っている。これは明帝の死後、卑弥呼の運命を暗示しているではないか。
明帝が死ぬと実権は司馬仲達の物になった。265年に司馬氏が魏を簒奪し晋を建国するが、仲達の希望により、彼が死ぬまでは魏を亡ぼす事はしなかった。

第五部 卑弥呼の死

明帝が死んで数ヵ月後、240年、太守の弓遵(きゅうじゅん)が倭国を訪れ、仮の倭王に任命するという詔を下している。
「将軍。」、「なんだ?」、仲達が倭国に使いを出した事を聞いた重臣は驚いた。
「あのー、倭国へ詔の使者を出しましたが、これって重複しません?」
「かまわん。卑弥呼に与えた称号は仮のものだ。あれは方便なのだよ。」
「ええ?ではまるっきりウソなので、」
「これ、口を慎め。卑弥呼へ出した称号は明帝がしたことであるぞ。わしはわしで倭王を指名することに文句があるのか?」
「いえ、とんでもございません。」

実は資料には太守とあるだけで、どこの太守なのかは述べていない。しかし、帯方以外に考えられない。この時点で卑弥呼は裏切られ、倭王が平壌の男王に移ったのである。そして遼東半島の帯方に郡を置いた時点で仲達は韓人の君長たちも裏切ったのである。

馬韓人の君長はあわてて卑弥呼の下にやってきた。
「姫、仲達に騙されましたな。」、「うう、美白クリームに目がくらんだ私が馬鹿であった。このままではすまさぬぞ、皆に申しつけよ。帯方郡を攻めるのじゃ。」

245年、辰韓の王達は反乱をおこし、帯方太守は殺される。がその後、247年、母丘検の部下、王頎が再び着任する。遼東は母丘検が守っていたが仲達との密約を実現しようとする高句麗、東川王との争いが始まった。
結局、仲達は都での後継者争いに夢中で遼東を含む朝鮮方面に興味を失っていくのだ。そして晋が建国されるも、あまりの内乱で周囲への気配りが出来ず、五胡十六カ国の乱立を引き起こすのである。

卑弥呼の死ぬ247年、遼東半島はおそらく無法地帯であった。倭国本国と卑弥呼との争いはこう着状態に陥り、帯方郡の新任太守の使い、張政が派遣された。
倭国は現在の北朝鮮の首都、平壌である。国は真っ二つに割れていた。卑弥呼の巫女としての立場は予想以上に強かったのだ。問題は魏としてどちらを王として認めるかだった。
張政は母丘検から、この後、高句麗征伐を開始する予定であり、高句麗を東側からけん制するに倭国の協力が必要だと聞いていた。「しかたがないな、両者から聞いてみるしかあるまい・・・・」、張政はつぶやいた。
卑弥呼が張政に呼ばれた。
「姫、その節はご苦労だったな。」
「なに抜かす。仲達は私との約束を裏切り、郡を設置したではないか。おかげで私の信用は失われた。呪うしかあるまいて。」
「まあ、お詫びするとして、実は女王にお願いがござる。」、このお願いが彼女の生死に関わる事になるとは彼女は気がつかなかった。
「なんじゃ?」、「じつは、幽州から高句麗討伐の軍が出発します。姫に置かれましては、ぜひこの際、わが軍に同調し、高句麗討伐にご協力を・・・」
「いやじゃ、高句麗の東川王は会ったことがある。イケメンで私好みじゃ。」
「では、協力が出来ないと・・・」
「あたりまえじゃ。仲達によく言って聞かせろ。約束を守れと・・・・」
「はい、そのように伝えます。」

汗をぬぐいながら、心は決まっていた。「殺すのか・・・・、一応、卑弥弓呼とも会ってみるか・・・」
卑弥呼が去った後、卑弥弓呼が呼ばれた。
「倭王、どうする?」、「え?どうするとは?」
「ことは高句麗よ・・・・、」「えー、高句麗がどないしました?」
「我々の高句麗討伐に協力するといえば、我々はおぬしの倭国王を認めようといっておるんじゃ」
「はは、そんなことならお安い御用で・・・・」
「そうか、よく分かった。話はそれだけだ。すぐに処置しよう。」
卑弥呼は殺された。「卑弥呼、以って死す。」とは、張政が倭国へ行き、それで死んだのである。

魏志を書いた陳寿は晋国の時代にこの史書を書いている。彼は仲達がウソをついた事を知っていた。邪馬台国など存在しない国をでっち上げたには理由がある。遼東半島の住民をペテンにかけた事を書けなかったのである。絶対に場所が特定できない書き方をしなければいけない。西アジアからはるばる中国までやってきたソグド人である彼は、イタリア半島からエジプトへ行く旅行記を参考に適当な道順をでっち上げた。
「誰も行けんじゃろ、行ってもらっては困るけんのう・・・」
彼の仲達を思う気持が、まさか現在でも論争が尽きない邪馬台国論争を引き起こすとは陳寿が知るよしもない。

終わり。

 

 

 

 

 

 

 
     
     

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