日本の捏造歴史研究所

マヨの古代史最新版

   

私の最大の研究課題

多くの課題が山積みされている中で、完璧に一つ一つ解決するより、大体の見当が付いたら次に移るのが私の流儀です。あまり完璧に証明しようとすれば狭い範囲で時間を費やす羽目になる。それよりも、なるべく広い範囲で大まかな流れを作ったほうが楽しいし、勉強になると思うのです。

私が出版を前提として研究するなら、そんなわけにはいかない。あらゆる論議を前提に、誰から突っ込まれても平気なほどの論証をしなければならない。そんなのはあまり楽しい作業ではないし、読むほうも退屈だろう。

私はそんなことより、自分が納得できる歴史が知りたい。それには少々の憶測や仮説を導入しなければならない。結局、壮大な時代小説を書くつもりと言ってしまいましょう。

私が一番知りたいのは、日本書紀は何のために書かれたかであり、唐の李世民が何のために多くの国書を作ったのかであります。中国の史書にははっきりと書かれていないが、唐は鮮卑族が建設した国であり、常に西側から突厥=匈奴の圧迫を受けていた。しかし、李世民が即位した後、見事に突厥を分断し、中華史上初めて天可汗になることができた。しかしその栄光もつかの間、高句麗との戦いに破れ、そのショックもあって死亡する。648年のことである。高句麗との戦いは645年の事で、大化の改新の年である。果たしてこの時に唐が日本に対し影響力を及ぼす事ができたかといえば、それは無理だろう。まったくの憶測ながら、事実上、この時唐は亡び、淵蓋蘇文が唐を属国にしたと考えている。

大半の史書は唐が降伏したとは書かれていないが、私は李世民が淵蓋蘇文に破れ、城下の礼を取らされたのは間違いないと考えている。

問題は、この淵蓋蘇文の出自がまったくわからないのである。なんと、高句麗の王を殺し、傀儡の王を立てて唐と戦争をしている、もちろん、唐軍を深く遼東にひきつけた上、背後から突厥の残党を呼び寄せるという、まことに見事な采配である。何故、そのような軍人の出自がはっきりしないのだろう。そして、天才的な戦略を見ても、単なる高句麗の将軍とは思えないのだ。彼がソグド人と言うのが私の仮説である。残念ながら、その可能性が高いにもかかわらず、調べようがない。ただ、高句麗王を殺した時点で自分が王になることも可能であったのに、あくまで将軍におさまり、傀儡の王を立てるところが怪しいのだ。これが闇の支配者達のやり方である。これらは、藤原家が天皇になれる力を持ちながら、あえてその地位につかず、寄生虫のように生き延びてゆく伝統的な処世術のようなものがあったように思う。

唐は世民が死に、高宗が即位するものの、実権は淵一門が握ったのではないか。そして高句麗を唐の一部とし、淵の息子に実権を渡し、自らは韓半島を南下、、新羅を作り、九州から日本の皇帝として飛鳥の地まで侵攻した。これが天武天皇だとすると、ちょっと飛躍しすぎか・・・・。

細かい事は無視して、天武が九州に侵攻したのが白村江の戦いで、奈良まで攻め込むのが壬申の乱なのだろう。理解してもらうのは大変に困難だと思うが、私はこの説が気に入っている。まったく聞く耳を持たない人は、従来からの歴史観にすっかり犯されているせいだろう。もちろん、従来のいわゆる官製歴史を全部破り捨てるという暴挙なのだが・・・・。

ここで重要な事だが、高句麗は淵一族に乗っ取られ、唐になっている。新羅は、実は旧倭国連合であり、恐らく突厥族に乗っ取られ、新しくシラギと呼ばれる。では、天智天皇たちは誰なのだろう。それは九州と韓半島南部に存在した伽耶国の王家ではないかと考える。

以前、法隆寺は移築されたという記事で、その当時、つまり聖徳太子時代から白村江の戦いのころまでの歴史は大宰府でおきたことだといった覚えがある。つまり、ここが日本の前身であり、天武はここを亡ぼした後、重要な建造物を押収し奈良へ持ち去ったと見るべきだろう。

問題は淵蓋蘇文がいつ死んだのかということで、天武と同様、確実な死亡時期は不明である。おもしろいのは、淵蓋蘇文の遺言が三国史記に載っていないのに、なぜか日本書紀に記されていることである。ふしぎだな・・・・・。

淵が死亡した事で、東アジアは大混乱に陥る。このおかげで唐は滅び、周となる。則天武后という女帝の存在は否定しがたいのだが、果たして本当に実権を持っていたのかは謎の中である。ただし、一時的に突厥第二帝国に対抗するため、吐蕃と手を組んだのではないかと言うのが私の推理である。その証明も非常に困難だが、唐や周が仏教をどのように扱ったかなどから推理してゆくしかない。

天智天皇時代の仏教は実は半島から来たものではなく、陳などの南朝仏教だった考えいます。なぜなら、当時の状況で、高句麗や百済を経由して仏教が伝わる状況ではなかったと見るからです。

天武時代から桓武天皇に至る時代は、表面的に見ても匈奴勢と国内鮮卑族との争いであり、結果、匈奴勢力が勝利し、鮮卑族は天皇の婚姻家系として存続を許され、権威の象徴として形だけの天皇家は百済王家に与えられた。そして、匈奴勢力は寺社を隠れ蓑に全国を支配する。私はこれらの戦略を編み出したのは知力のすぐれたシルクロードの支配者であるソグド人しか考えられない。

彼等は裏で暗躍し、表面的な勢力争いは軍人にやらせ、自分たちはあくまで裏支配を心がけた。彼等は僧侶に身を隠したり、官僚として政府の要人にもぐりこんだりしてきたのだ。匈奴の軍人はソグド人の傭兵部隊であり、ソグド人が彼等を利用してきたと見る。彼等僧侶が宗教を隠れ蓑に支配者として君臨した証拠は、日本建国の時代から、現在に至るまで、税金とは無縁の世界で特権階級を維持していることである。奈良時代や平安時代に天才的な僧侶が多く輩出しているが、彼等こそシルクロードからやって来たソグド人に違いない。そうでなければ遣唐使として派遣され、唐の都で中国語を操り、難解な仏教の法典を読めるわけない。その当時に寺社以外で学問を学ぶ施設はなく、ごく少数の選ばれた人だけが学問を志していたはずだ。ソグド人は最初からエリート達の集まりだったのだろう。

日本の歴史書にソグド人が大挙してやってきたという証拠はない。しかし、商人でもある彼等が侵略軍とともに日本に渡来し、さらに、百済や高句麗、新羅からたくさんの職人を強制連行し、日本を建国する基礎を築いたと考えれば、日本書紀を編纂し、自分たちの存在を見えないものとする彼等の目論見がある程度わかる気がする。中国史、朝鮮史、そして日本史、すべてに共通するのは影の支配者の姿を消し、表の抗争を歴史のすべてであるよう取り繕ったのではないかと言うのが、今の私の考えです。

マヨの歴史講座二回目

私が歴史に足を踏み込むきっかけは、多くの人がそうであったように、邪馬台国のロマンでした。世界的な陰謀の研究に嫌気を感じ、つまり世の中がいやになるような、そして大人たちが怪訝な顔をするような研究は止め、もっと楽しくなるような研究をしたいなと思ったのでした。それが真剣に研究を始めると、じぶんでも意外な方向へ行ってしまった。

ほとんどの研究書は、邪馬台国論争のスタートを魏志倭人伝の有名な航路の謎解きからはじめる。まあ、当然なのだろうけど、もちろん、私も皆さんと同じく地図を開きながら韓国南部から対馬へ、そして壱岐へ、さらには・・・・こうして皆さん罠にはまっていくのですね。この方法をとる限り、絶対に歴史学会の思う壺にはまる事になる。それではいけないのです。

そこへ行く前に、どうしても知っておくべき重要な事があるのです。

一番重要なことは、なぜ卑弥呼が魏王に朝貢する必要があったのか、なのです。

当時の魏王室の状況は、魏帝が病弱で後継者争いが始まりつつあった。その中で実力、人望ともナンバーワンだったのが司馬仲達で、有力者達は彼を中央から遠ざける意味も含め、当時燕王として自立していた遼東の公孫氏を征伐する将軍に司馬氏を派遣する事を決めた。司馬氏も同じく、中央にいて勢力争いに巻き込まれるよりは、魏内部で勢力争いをさせたほうが自分にとって都合が良いと考えていたのですね。

問題は公孫氏が勢力を持っていたのは遼東、即ち楽浪郡であった。現在の遼寧省、瀋陽あたりと考えられる。さらに、帯方郡と言うのは公孫氏が楽浪郡十八県の中から南側七県を独立させ新たに作った郡である。つまり、そこは鴨緑江と遼東に挟まれた遼東半島に他ならない。(この論証はなかなか大変なのだ。)

ほとんどの歴史書がその真実をねじ曲げ、間違った概念を押し付けている。つまり、私が主張するのは遼東半島には三韓が、つまり馬韓・辰韓・弁韓がいて、彼等はそこに設置された帯方郡の公孫氏に服従していたと考えられる。しかも魏志によれば、三韓はそれぞれ倭と接していると書かれているから、遼東半島の南部にも倭があったことになるのだ。晋書によれば、倭には東倭といわれるものもあり、こちらを現在の北朝鮮に比定するのが妥当だと思う。つまり、現在の北朝鮮こそ倭の本国そのものだったというのが私の意見であります。

北朝鮮問題がいっこうに解決しない根本的な原因がここにあるのでは・・・と私は思っています。当然ですが、今の平壌が首都だったでしょうね。

さて、司馬氏は公孫氏の遼東郡を滅ぼすために、幽州から母丘倹率いる大軍を進軍させ、、遼東半島に上陸させた水軍とで挟み撃ちにする戦略を立てた。これは後の隋や唐も高句麗討伐にまったく同じ攻略法を使っている。つまり、遼東を制圧するには遼東半島、つまり、日本軍があれほどの被害を受けながらもどうしても奪う必要があった、旅順、現在の大連を占領する事が絶対条件であった。もちろん、従来の歴史では帯方は南朝鮮になっており、根本的に間違っているのだが。仮にそうであるなら、公孫氏は最初から存続できないはずで、こんな簡単な理屈がどうしてわからないのだろう。

つまり、学説からすると、公孫氏の攻略と卑弥呼の朝貢は何ら関連性はない。つまり学説からすれば公孫氏は戦う前から包囲されている事になり、魏がわざわざ対馬海峡を越えて倭国へ使者を使わす意義は認められないし、ましてや遠い日本列島まで内乱の介入をするほどのゆとりがあったとは思えない。

卑弥呼が遣使のやり取りをしている真っ最中に魏王は死亡するし、公孫氏は滅ぼされている。

卑弥呼が帯方へ使いを出したのは237年6月で、その年の8月、公孫氏は滅びていることになっている。仮にこれが本当なら、ギリギリセーフなのだ。なにが?つまり、魏が公孫氏を討伐するのに卑弥呼が協力したという事実が残るのである。

しかし、晋書には「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。・・・・・」とあり、司馬氏が公孫氏を滅ぼした後に朝貢してきたと読める。(諸説あり、卑弥呼が公孫氏と読む人もある。私としてはどちらでも良い。)どちらが正しいかはやぶの中だが、私から言わせれば邪馬台国は内部で二つに分裂しており、魏への朝貢はギリギリの判断だったと思うのです。司馬氏が公孫氏を滅ぼすとすぐに魏帝は危篤に陥り、司馬氏はあわてて都へ急行する。その時点でもう彼には遼東情勢などどうでもよくなり、魏を簒奪する陰謀に突入してゆく。さらにその後、魏から晋への易姓革命が起こり、晋が滅び、北魏が中華を統一するまでの長い期間、韓半島と遼東は五胡十六国の乱に巻き込まれ、復元できない歴史時代を迎えるのである。

まさに、この時代こそ日本の歴史に関わる一番重要な期間なのだ。

要点は楽浪郡の位置の把握であり、倭国の本当の存在した位置である。私の説を元に中国史。朝鮮史を読まれるがいい、いかに従来の歴史が矛盾に満ち溢れているかわかるはずだ。

どれだけ日本中を探しても邪馬台国はでてくる事はない。邪馬壱国という表現があるというが、そんなことは枝葉の問題で、史書の編纂者が前史を否定できない場合の苦肉の策にすぎないのだ。

以前、邪馬台国、エジプト論というのがあるといったが、恐らくそれは正しい。つまり、陳寿は絶対に倭国がどこにあったのかわからないように魏志に記したのだ。なんのために?おそらく、その後卑弥呼が殺されているが、司馬氏が卑弥呼や三韓を裏切った事を隠すためだったのではないだろうか。

日本書紀には卑弥呼も邪馬台国も書かれていない。書記の編纂時、当たり前だが、魏志の内容は知っている。なのに、何もそれに触れなかったのは、当時の歴史家にとって邪馬台国は日本にはまったく関係のない地域の歴史だったと認識していたとしか思えない。ところが近代になって邪馬台国論争が銭になると分かり、学会はこの論争で非常に儲かったであろう。しかし、そのおかげで倭国の歴史が明らかになってくるというのは歴史の皮肉とでもいっておきましょうか。うそつきどもよ、くたばってしまえ。

さて、ここまでお読みいただいた方、ご苦労様でした。次回、第三回は神武天皇は誰なの?をお送りします。

待っててくれる人は少ないと思うけど、頑張ってみます。

今日のテーマ、神武天皇はだれなの?ということなので、神武天皇の正体が明らかにされると期待された方、まことに申し訳ない。私は、実は真剣にそのテーマに没頭した事がない。つまり、皆さんの知りたがっている神武の正体はお伝えできません。詐欺だ?そんなオバマな・・・・。

マヨの古代史はシンプル構造なのです。あまり細かい事気にしないで聞いてください。

平成天皇がいみじくもおっしゃった、「桓武天皇の母方に百済のゆかりを・・・・」というゆかり発言は国家元首としての一言だけに非常に大きい。

さらに、何度も取り上げているが、渤海からの使者が聖武天皇に対し、国書の中で「わが国と天皇さんとは親子の関係ではありませんか。・・・」と述べた件である。

私は気が早いから、下手に日本史を勉強するよりも朝鮮史の中から日本の天皇の祖先を探したほうが手っ取り早いと考えたのです。

まずは百済から調べると、百済の始祖は朱蒙であり、朱蒙は高句麗の始祖でもある、この朱蒙は伝説によれば夫余を追われ東へ逃げ、高句麗を建国している。史書を読む限り、朱蒙の出自は太陽の光になる。つまり、出自不明である。日本の始祖が百済、高句麗から出ていると考えると、朱蒙以前にさかのぼることはできない。つまり、神武が朱蒙であると考えるのは実に合理的な判断なのである。

朱蒙がいつの時代の人間なのかは後に回し、朝鮮には檀君神話というのがあります。檀というのは「まゆみ」であり、弓の材料の木を現します。朱蒙が弓の名手であったという伝説と、神武が東征したときに片手に弓を持った勇姿が見事に重なり、まさに朱蒙が檀君だったと私は考えます。

さて、中国史書に180年ごろ鮮卑族の檀石塊が遼東を荒らし、倭人を捕まえて漁業に従事させたと記録されています。これらの出来事を総合すると、ひとつの仮説が浮かんできます。

失われたイスラエル部族であるダン族はシルクロードを経て遼東へやってきた。彼等は東胡の一員であったが、匈奴から追い立てられ遂に夫余の地で活躍の場所を見つけた。夫余王の王妃、河伯の女に子供を産ませ、その子供を高句麗王にする。つまり、檀石塊が檀君で、韓流ドラマにでてきたヘモス将軍に他ならない。

立派な歴史なら良いけど、現実の歴史はそんなものだ。武力で攻め込んできた檀君に対し、夫余王は大事な

王妃を差し出し服従した。韓流ドラマにはクムワ王とヘモス将軍として登場している。彼は出来た子供を高句麗の始祖にしたのだ。つまりどう考えても高句麗の建国は西暦200年ごろにならざるをえない.当然ながら神武の即位も同じ事である。

さて、公孫氏が滅び遼東が無法地帯になったのは240年ごろである、(大雑把ですいません)、そこへ高句麗の東川王が進出する。これが日本で言う崇神天皇であろう。

鹿島昇氏をはじめ、百済王家に日本の天皇家の祖先を求めた研究書は多いが、私はそれらを意図的な高句麗隠しに見えてくるのだ。なぜならそうしないと後で、大問題が発生するからである。

その問題というのが広開土王である。彼の活躍したのは400年ごろで、集安(現在中国領)にある有名な石碑には、その地域まで倭人が攻め入り高句麗軍が撃退したと記録されている。

石碑が捏造なら仕方がないいが、日本の歴史家達が説明に困るのも無理はない。日本書紀にはそのような出来事はどこにもないのだから。

私はこの広開土王が倭の五王の一人と考えている。彼の姓が安氏であるとは過去に何度も触れてきた。ただし、それはパルティア国、つまり安息国と考えてきたが、最近はソグド人の可能性も考えるようになって来た。それらは同じ事かもしれないが、いずれにせよ彼ら安氏が南韓の地に安羅国を建国し、さらに彼等が応神天皇として日本に渡来し、飛鳥の地に拠点をもったことはまず間違いのないことである。

彼ら安羅国の人々は応神天皇時代よりはるか前から敦賀に上陸し、海部氏として徐々に奈良方面まで勢力を伸ばし三輪王朝を開いていたと考える。そこへ同族の応神一派が侵略してきた。その時の鉢合わせが有名な神武と対面するウマシマデである。つまり、神武東征で書かれていたのは応神天皇の東征そのものだったのである。安羅人は伊勢で王国を作る事を認められ、持統天皇の時代までその地で勢力を保った。

さて、キリがないので、今日はこのぐらいにしておこう。私の説を理解していただいただろうか。私は日本の歴史の源流は高句麗とより近いと思っている。しかし、奈良時代末期、たまたま日本に亡命していた百済王家が傀儡の天皇になり、関わりの大きかった高句麗の歴史を抹殺する必要が出てきた。一回目の講座で述べたように、それらはすべて匈奴軍を率いてきたソグド人がやったことである。

平安時代に日本の国体が完成した。表の権威は傀儡百済王家であり、世襲する。そしてその婚礼家系として鮮卑族を藤原氏に偽装し、将来的にも身分は保証する。裏支配はソグド人が寺社の中で行う。旧支配者、伊勢神宮は天皇家の祭祀集団として身分は保証される。

私の数年間に及ぶ集大成が最後の国体の表現であります。今のところ仮説ですが、大きく変わることはないのではないか。藤原家、特に不比等が実在したかどうか、これこそが日本史最大の謎なのである。

さて、三回に分けて書きました。書きたい事はまだまだありますが、今後はまた個別に書いてゆくことにします。長い文章にお付き合いしていただき、感謝いたします。

 
     
     

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