邪馬台国は何処にあった(基礎資料編1)

楽浪郡の所在地確定作業

上記の考察に付いて最も信頼できる文献から引用しましょう。

山形明郷氏(邪馬台国論争終結宣言)を参考にしながら考察します。

まず、後漢書の東夷伝に

「至元封三年、滅朝鮮、分置樂浪、臨屯、玄菟、眞番四(部)郡」

武帝三年に朝鮮を滅ぼしそれを分け、四郡を置いた、とある。

 

又、同書、光武帝紀には「樂浪郡故朝鮮國也在遼東」とある。

楽浪郡は古の朝鮮国なり、遼東にあり。

他の晋書や魏書の地理誌にも幽州,平州、営州に楽浪郡が置かれたとなっている。

『晉書』地理志上 平州

咸寧二年十月、分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州

これらの州は現在の遼寧省一帯を指す物である。つまり、各郡共に現在の中国領内にある事は明らかである。

六世紀ごろより中国の歴史家により楽浪がピョンヤンに在ったという

主張が出され、これを日本の御用学者が採用し今日に至っているという。

従って平壌には楽浪郡がなかったにもかかわらずそこから出土した文化財を

漢時代の楽浪文化というのは甚だ間違っている事になる。

その歪曲は、1916年朝鮮総督府の古跡調査団が平壌付近の木槨(もっかく)古墳と

塼槨(せんかく)古墳を調査した時に始まり、1924年の「楽浪古墳」の調査、1925年の旧帝大の木槨古墳

の調査でより広汎になったといわれる。

 

日本が朝鮮において、絶大な権力を持っていた頃、御用学者、今西龍、白鳥庫吉、津田左右吉などにより

徹底的に旧朝鮮領は捏造された。

今でもこの亡霊は生きているウイキディアの楽浪郡を見てみよう。

「楽浪郡治は衛氏朝鮮国の都、王険城を郡治とし、現在の平壌市付近にあったと推定される。当初は平壌の大同江北岸(現在の平壌市街)に郡治が所在したが、その後高句麗勢力の台頭により、大同江南岸の土城里に移ったと考えられえる。」

ここで、王険城の位置も改ざんされている。

何も知らずに勉強するとこれが基本となり全てが狂ってくる事になる。

平壌の位置は基礎編2でやる事にして、楽浪の位置がなんの根拠もなく現在の韓半島の中へ入れられていることに注意されたい

我々は日本の歴史を学ぶ為に韓半島や中国史を学ぶ事に目が行きにくい。だが、このような基本的なことで嘘をついてもらうと、それでは他に何か間違いはないだろうかと考えざるを得ない。

実は倭の歴史を学ぶ事は韓国の歴史を学ばざるを得ない。必然的に中国史も知る必要が出てくる。

鹿島昇氏の「捏造の歴史の歴史」には中国の歴史の捏造が書かれている。

史記は捏造だという。秦の始皇帝が中国を統一した時に焚書坑儒した事は有名だ。従ってその時、中国の歴史書は徹底的に燃やされた。

だから漢の時代、史記を作る時に資料はほとんど残っていなかった。そこで有名な司馬遷は歴史をでっち上げた。

何をでっち上げたかはとても書ききれない。しかし最低でも言っておかねばならないのは秦は中国人の国ではないということ。

中国では古代遺跡の発掘が盛んに行われているが史記とあまりにも一致しないので困っていると思う。

捏造の歴史の研究はまだ入り口です。

困ったもんだ。日本書紀の捏造の研究はいつになることやら。

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