金印が動かぬ証拠!志賀島で発見された金印は本当に倭王の物?

 

「後漢書」の倭国伝に「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」

 

 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。

 

この印綬と見られるのが有名な志賀島で偶然発見された金印である。

 

wikiを見ると、「天明4223日(1784412日)、福岡県福岡市東区志賀島南端、叶崎の「叶の浜」で出土、福岡市博物館所蔵(福岡藩主黒田家旧蔵)。国宝に指定されている。」

 

世間的にはおおむね本物とされ、倭国が福岡にあったという最大の根拠とされている。さて、農民が偶然田んぼで見つけた金印が、日本のアイデンティティーにとっていかに大きいかを考えると、この発見こそ日本の歴史上最大の大金星なのではないだろうか。

 

落合莞爾氏の「偽史」がネット上で見ることができる、その「4回 月刊日本 2005年1月号」の記事に「金印偽造の真実」としてそれが書かれている。

 

http://2006530.blog69.fc2.com/category10-9.html

 

詳しくはそれを参照願いたいとして、そこに書かれていることは、、落合氏は龍谷大出身のS氏から聞いた話として、「あの金印はもともと黒田藩が天明のころ作ったもんですわ。あの時分はちょうど考古学ブームで、あちこちでこんな真似をしたんでしょう。目的は、将来、黒田の殿さんが征夷大将軍になる時に備えたもんやそうです。博多から昔の日本国王の印が出たのは、黒田の殿さんが将軍になるべき因縁が顕れたもんや、と主張したいからですや。しかし、1個やおまへんで、4つくらい作ったらしいわ」。と書いている。さらに、作者は高芙蓉という印章学の最高権威の人間だったらしい。

 

この時高芙蓉は「漢倭奴王印」とすべきを「漢委奴王印」と間違えたため歴史学会を大いに悩ます羽目になったという。

 

さあ、皆さんこれを聞いてどう思われる。いつも証拠はあるのか、根拠はあるのかと問い詰める人々はこれについてどう考える。この金印が偽造で真っ赤なうそだとしたら倭国が九州にあったという根拠はどうされるのか・・・・。

 

少なくとも金印に対し真贋論争が起きた場合、それを証拠として採用する事は控えるのが見識というものである。しかし多くの歴史本を読むと無条件で倭国は九州にあった事とし、その証拠にこの金印を挙げる例が多い。そのひとつだけで、その本のすべては否定されることになる。そもそも志賀島の遺跡から発掘された物ならともかく、どこからか持ってきた可能性もあるのだから、これを証拠に倭国を論じる事は大いに批判されるべきだろう。

 

「楽浪海中に倭人有」と中国史書に書かれている。私のブログを読まれている方は楽浪海と言うのが現在の渤海で遼東を指している事は承知されていることと思う。だったら倭人が現在の遼寧省にいたことは自明であり、どうして楽浪海中に九州がある事になるのだ。

 

倭人が韓半島にいて、倭国があった証拠はいくつも提示している。随書に登場するアメノタリシヒコがどこにいて誰であったのか論証しない事には、聖徳太子が隋の王に親書を送ったとは決して言えないではないか。タリシヒコと聖徳太子が別人である事はいろいろなところで論証されている。中国の史書にはウソが多いから信じてはいけないというのであれば、日本の歴史書が正しいという根拠を示して欲しい。

 

どちらも信じてはいけない。これが結論である。

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