ちょっと脱線して部族のお話。研究中に付き参考まで

後漢書の高句麗伝に、涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部の五部族があったと書いてある。

この部というのはなんだろう。さらに、本来は涓奴部から王を出したが、徐々に微弱となり、後に桂婁部がこれに代わった、とある。

つまり、部族と考えるべきだろう。

さて、扶余伝にも、「六畜(ろくちく)の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる。

邑落には豪民がおり、下戸という奴僕がいる。諸加(馬加など)は主要四道(一種の道州制)に別け、道における大邑落の首長は数千家、下位の小邑落の首長は数百家を支配する。」とある。

牛加・馬加・猪加・狗加については、
1)各部族のトーテムで、トーテム信仰に基づく部族名とするトーテム説
2)方角を意味する夫餘語に当て字しただけで動物の意味はないという方角名説
3)方角を易の八卦によって該当する動物でよんだものとする易説
4)部族ごとに飼育する家畜を分担してその家畜名で部族がよばれたという飼畜分担説
があり、鹿島昇氏はこの扶余の六蓄に付いて次のように分類している。

涓奴部 羊加  壇国では、羊加 鶏加、善悪を司る。牧羊民族で羊、鶏をトーテムとする人々。檀君の王      家、番韓の王、物部氏

                     絶奴部 馬加  maka 命をつかさどる。後の馬韓、靺鞨になる。

                     順奴部 牛加   穀を受け持つ。バアル神、牛をトーテムとする。

                     灌奴部 猪加  カンヌベ 、猪をトーテムとする。高句麗の貫奴部、蘇我氏、卑弥呼。

                     桂婁部 狗加  箕子朝鮮の主力。高句麗、百済の王家で桓武、光仁天皇でもある。

                     :   犬加        インドから来た奴隷集団。わが国へは稲荷神社の狐、三狐神社の人々。

上のことが事実であるなら日本の歴史の大きな部分ははっきりしてくる。

こんどは浜名氏を引用してみよう。高句麗族と新羅の六部を対照している。

                     高句麗のキロ部(桂寠部)は新羅の及梁部(キロ) 黄色・・・内部

                     高句麗のセナ部(絶奴部)は新羅の漸梁部(セロ) 黒色・・・後部

                     高句麗のセナ部(順奴部)は新羅の沙梁部(サロ) 青色(そら)・・左部

                     高句麗のハナ部(灌奴部)は新羅の漢岐部(ハキ) 丹色(はにろ)・前部

                     高句麗のシナ部(涓奴部)は新羅の習比部(シヒ) 白色  ・・・右部

それぞれの意味はとても理解しがたいが、扶余の部族制が高句麗も新羅にもあったことは非常に面白い。

ところが百済の史書には部族が出てこない。これはなぜだろうか。

さて、最近手に入れた本に川崎真治先生の「混血の神々」がある。この先生の理論では、ほとんどの疑問が氷解してしまう。その本から要点を抜き出してみた。

       馬加とは、 マカとは馬トーテムの部族であり、莫何、靺鞨、渤海も実は「マカ」であるという。

もっと言うなら、扶余もプヨカといい、馬加の国号だった。馬の読み「ま」はシュメール語のmerから来ている

紀元前1300年ごろから華北、内モンゴルで遊牧していた部族だと思われ、発生地はアルタイのようだ。

高句麗が建国された時、涓奴部は元の王族だったと言う事は、つまり、馬加がそれに当たる。したがって涓奴部

は、馬奴部であり、「マナベ、マナブ」と読む。「真鍋」「間部」は馬族である。

       牛加とは、牛の原産地、メソポタミアでは牛のことをウルク期にはウルとよばれていた。この牛をトーテムとする

部族が牛加になった。そして王族となり「ウル王朝」と呼ばれる。この部族が紀元前100年に扶余に登場していた。また、メソポタミアでは製塩が盛んで、塩族と呼ばれた。この塩族、即ち、シオン族は牛族とともにメソポタミアを離れたといわれる。塩族はインドに入り釈迦族となり仏教を編み出した。

日本では布留に関わるものはすべて牛加である。これがどうして高句麗で絶奴部になるのかはとても難しい。結論だけにしよう。絶奴部が牛加であり、シノブと読む。

       猪加はいのしし、あるいは豚を表す部族であるが、トーテムとしてとてもふさわしいとは思えない。朝鮮、中国ではその発音は「ちょ」であり、殷時代の主力、鳥トーテム部族と思われる。殷のマークは「三本足烏」であり、高句麗の伝説、ヤタガラスそのものである。「猪奴部」と書いて「ちょなべ」すなわち、順奴部であろう。そして、いのししはヰであり、「ヰなべ」と読める。雄略12年、建築の専門家として、猪名部御田が登場する。彼等は建築の達人だったのだ。三重県の員弁、猪名部神社は猪加の事だ。

原シナ人として殷王朝時代に燕を建国していた。しかし、牛族の周が殷を倒し、塩族・牛族が燕の国王に「召公」を封じたため、満州方面に逃亡した。日本では、「い」と「ヰ」を区別しない。しかし、伊勢は「伊勢」であり、井上は「ヰのうえ」である。チョンナで木を削るのは猪名部の名残である。

       狗加は犬トーテムだ。証明は略し、これが高句麗では桂寠部となり、王を出す部族となる。ご承知のように韓国では犬を食べる。トーテムとは崇拝する事はあっても、自分の神を食べる事はありえない。このことからして朝鮮の人々は犬族を今でも快く思っていないようだ。犬族は印欧系であるという。エジプトで犬はエルと発音しそれが転じてエン、インになった。

En-g-landGer-man IndIraqIran すべてに、eninが入っている。これはすべてアーリア人の国であることを証明している。つまり、犬族はアーリア人だったと言う事だ。

狄(てき)は犬ヘンに火、犬族で拝火教徒、もしくは製鉄部隊を示している。

       さて、灌奴部残ったのは、扶余には海がなく、高句麗には海があったのだから、海洋民族がやってきたのだろう。

中国史書ではまったく不明なので、今回はこれを南方部族として余り部としよう。

 

以上で川崎先生のダイジェストです。鹿島氏や浜名氏と若干異なるが、言語学のエキスパートとしてとても説得力があった。我々では彼の理論には正直反論する事ができない。

あとは、彼の理論が歴史とあっているかどうかだろう。

またつづく

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