邪馬台国に秘められた謎
現在邪馬台国がどこにあったかを論証しようと思っているのですが、その途中で遭遇した捏造部分をとりあえず
指摘し、検討していきたいと思います。
一、いちばん大きな問題は百済、新羅の場所が明らかに間違っていると言うこと。
この原因は、たぶん倭国が白村江の戦いに敗れ、国が滅びた事をごまかすため、新羅、唐との合作だったと思われる。
つまり、663年以降の事だ。
何が起こり、いったいどうして捏造する必要が出てきたのか。
中国がまず平壌の場所をごまかし、新羅も黙認し、日本がそれに従ったようだ。
これが判れば日本の捏造の歴史の一番重要な部分が判明する。ここが、日本の歴史の出発点になる。
二、倭が韓半島にあったにも拘らず、あたかも日本そのものに見せかけた理由も同じところから来ている。
新羅には金、昔、朴の三氏の始祖がいる。これも不思議な事で、考えてみれば少なくとも三つの国が合併した事を
意味しているのではないだろうか。
たとえば、金管加羅国、多羅国、安羅国、伽耶国などだ。だから、三氏の由来はその各国の歴史であり、合併する時に
その歴史を適当に合成した可能性がある。
しかし、日本書紀の中にその国の歴史も含まれている疑いがある。私が一番興味を覚えるのは蘇我氏、物部氏、大伴氏
などがどうも日本の歴史には思えないのだ。実在の証明がないような気がする。
このあたりはもう少し勉強が必要だろう。
三、倭の五王は日本の歴史ではないことは明らかだ。これは中国の史書「梁書」に
「 晋の安帝時(396−418年)、倭王讃がいた。讃が死に、弟の彌が立った。彌が死に、子の済が立った。
済が死に、子の興が立った。興が死に、弟の武が立った。
斉の建元中(315−316年)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。
高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。」とある。つまり、この当時、新羅、任那、秦韓、慕韓と倭
があったことになる。
ところが、「南史」になると少し長いが、結構面白いのでついでに読んじゃおう。
「興が死に、弟の武が立つと、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。
順帝の昇明二年(478年)、遣使が上表して言う「昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山河を跋渉し、安らかに暮らす暇なく、
東に毛人を征すること五十五カ国、西に衆夷を服すること六十六カ国、陵墓を平らげること海北の九十五国。王道は安泰に調和し、
国土を拡げ、京畿を遠く離れ、累代に亘って朝廷を尊び、歳に誤りなし。
道は百済に直行し、船舶を装飾する。而して高句麗は非道にも、併呑を欲して謀る。臣の亡き済は、まさに大挙せんと欲したが、
突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣も獲れず。今、練兵して父兄の遺志を明らかにせんと欲す。
密かに自らを開府儀同三司と仮称したが、その余は皆、各々仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧めん」。
詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙した。
斉の建元中(479−482年)、除武を持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に叙した。
梁の武帝が即位すると、武の爵号を征東大将軍に進めた。」とある。
少なくとも高句麗国に対しては倭は将軍とは言われていない。しかし、百済については倭が将軍になったり、又百済が独立したりしている。
実際に、現在の言われているように日本の朝廷が韓半島を支配できるほどの力があったとは思えない。のちに遣隋使や遣唐使を派遣することが命がけの仕事であった事は明らかだから、日本から韓半島を支配するために船団を常駐させておくのは不可能と思われる。
そこで私の大胆な仮説を述べよう。
発想を変えてみよう。逆に仮説を立て、史書と矛盾するかを調べればよい。
大体、想定は白村江よりも前。五世紀あたりから六世紀ごろ。
百済はもともと遼西に出来た国だから多少動いても遼東半島からそんなには動くまい。図よりもう少し西のような気もする。
高句麗は鴨緑江から南には入らないとして。
倭は好太王と戦うためにはこのあたりの位置が良い。
新羅はもともと高句麗に接していた。
加羅と任那はまったくのあてずっぽうですが、遺跡の数、そして人口から言って
このあたりに大きな国があったと見るのは妥当であろう。他の史書には、安羅国、多羅婆国などの名もある。秦韓、慕韓は新羅、百済の間に位置しているのではないか。
この地図から中国史書と比較して、矛盾するかどうかを見てみよう。
まず百済を南史で見よう。
「本は高句麗とともに遼東の東に在ったが、晋の時代、高句麗が遼東を略有すると、百済もまた遼西の晋平二郡を占拠して、自ら百済郡を置いた。・・・梁の天監元年(502年)、征東將軍に号を大きく累進させた。高句麗に国を破られ、衰弱は累年に及び、南韓の地に遷都したことを訊く。普通二年(521年)、王の余隆が再び遣使を以て奉表し始めた。何度も高句麗に撃破されたが、今、初めて通好を実現したと称す。百済は改めて強国となった。その年、梁の武帝は詔を以て隆を使持節、都督百済諸軍事、寧東大將軍、百済王に為した。」
南韓の地が問題だが武のときは倭は百済を押さえていたが、その後に百済は独立している。
仮説はそんなに違和感はないと思われる。
次は新羅を見よう。今度は「北史」にしよう、南史はあまり詳しくない。
「 新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う辰韓の初め六国だったが、十二国に細分した、新羅はその一国なり。その王は元の百済人、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。初めは百済に従属し、百済が高麗に征圧されると、苦役に堪えられず、後に連れ立ってここに帰属、遂には強盛となった。百済を因襲し、迦羅国を臣従させる。伝世三十代の真平(王名=金姓)に到る。大業以来、毎年遣使が朝貢した。新羅の地は険しい山が多く、百済に隙をみせても、百済もこれを包囲することは不可能である。」
ここまで来ると、今度は以前の三韓まで戻らなければならないが、大事な事は、楽浪郡にあったと言う事と、百済から逃げ出して王様になったこと。山が険しくて百済も手が出ない。地図上ではもう少し北で、もう少し小さいのかもしれない。楽浪郡は基礎編でも研究したが幽州にあるのだから鴨緑江を渡る事はない。現北朝鮮よりも北である。少なくとも今までの常識的な韓半島の南東にあった説は認めにくい事はいえると思う。一体、従来の新羅の位置は何が根拠なのであろうか。
では、高句麗を見よう。と、思ったが異様に長い。しかし、略す所がない。まるで高句麗史のようなものだ。長いので、場所に関わるところだけを青色にした。
(内容は面白いけど長いので興味のある人だけよんでください。)
朱蒙が死ぬと、子の如栗が立った(魏書は「朱蒙が死ぬと、閭達が代わって立ち、閭達が死ぬと、子の如栗が立った」
とある)。如栗が死ぬと、子の莫来が立つに及んで扶余を併呑した。....
漢の武帝の元封四年(前107年)、朝鮮を滅ぼして玄菟郡を置き、高句麗を県としてここに属させた。..
..常に従玄菟郡に臣従して....東界に小城を築き、これを収納し、この城を幘溝漊と名づけた。溝漊(コル)
とは、高句麗の「城」の名称である。...
王莽(新の皇帝)の初年(12年)、胡族の征伐に高句麗兵を徴発したが行くことを望まず、
王莽は強迫してこれを派遣したが、皆で長城を出て寇盜をなした。州郡は句麗侯の騶に罪は帰するとし、
厳尤がこれを誘い出して斬る。王莽は大いに悦び、高句麗を(下句麗)と改名し、(高句麗王を)
高句麗侯に(格下げ)した。...光武帝の建武八年(32年)、高句麗が遣使を以て朝貢した。
殤帝と安帝の間(105−125年)、莫来の裔孫の宮が数回に亘って遼東郡を侵略。
玄菟郡の太守「蔡風」がこれを討伐したが、拘束することはできなかった。
宮が死に、子の伯固が立った。...
和帝と順帝の間(88−144年)、何度も遼東郡を侵犯し、略奪を働いた..
霊帝の建寧二年(169年)、玄菟郡太守「耿臨」がこれを討伐し、...伯固は降服し、遼東に属した。
..公孫度が海東で勇躍、伯固はこれに通好した。..伯固が死に、子の伊夷摸が立った。
伊夷摸は伯固の時に数度遼東で略奪し、滅亡させた胡族の五百余戸を収容していた。
建安中(196−220年)、公孫康が軍を出して高句麗を攻撃して、国を撃ち破り、邑落を焼き払うと、
降服していた胡族も(高句麗に)叛いた。伊夷摸は改めて新しい国を立てる。
その後、伊夷摸が再び玄菟を襲撃したが、玄菟と遼東が連合して迎撃し、これを大破した。...
伊夷摸が死に、子の位宮が立った。...
魏の景初二年(238年)、太傅、司馬宣王に大軍を率いて公孫文懿(公孫淵)の討伐に派遣すると、
位宮は主簿、大加に数千人の加勢を率いさせて派遣してきた。
正始五年(244年)、幽州刺史の毋丘儉が万余の兵を率いて玄菟を出て位宮を討伐、沸流水で大戦となる。
位宮は敗走、儉は赬峴まで追撃し、車を牽き、馬を束ねて丸都山に登り、その都を破壊した。
位宮はただ妻子を引き連れて遠くに逃れた。
正始六年(245年)、儉が再びこれを討つ、位宮は身軽に諸加を引き連れて沃沮に逃走。
儉は将軍の王頎にこれを追討させ、沃沮の絶海千余里、粛慎の南に至り、石に軍功を刻字して記念とした。
また、刊丸都山、銘を不耐城として帰還した。その後、また中夏と通じた。
晋の永嘉之乱(307年−313年)、鮮卑族の慕容廆は昌黎の大棘城を任され、元帝は授平州刺史に授けた。
位宮の玄孫の乙弗利が頻繁に遼東を侵すも、廆には制圧できなかった。
弗利が死に、子のサが代わって立った。
魏の建国四年(342年)、慕容廆の子の晃がこれを討伐、南陝より入って、木底に於いて戦い、
サの軍を大破、丸都まで追撃した。サは単騎で逃走、晃はサの父の墓を掘り返し、母と妻、
珍宝や男女五万余人を掠奪し、その宮城を焼き払い、丸都城を破壊して帰還した。
サは後に百済に殺された。
晋の孝武帝の太元十年(333年)、高句麗が遼東と玄菟郡を攻撃した。
後燕の慕容垂は弟の農を派遣して高句麗を征伐し、二郡を復した。
垂の子の宝は高句麗王の安を平州牧、遼東、帯方二国王に封じ、初めは長史、司馬、参軍官を配置した。
後に遼東郡を強奪する。太武帝(世祖、在位423−452年)の時代、サの曾孫のl(高l=長寿王)が初めて使者
を派遣して安東(魏書では使者の名が安東)に詣で、奉を表して方物を貢献、并わせて国の諱(いみな)を請うた。
太武帝は、その誠意と律儀を嘉とし、その国に帝系の名諱を授けるよう詔を発した。
員外散騎侍郎の李敖を使者としてlに都督遼海諸軍事、征東将軍、領護東夷中郎将、
遼東郡開国公、高句麗王の称号を拝受させた。
敖がそこに至り、平壤城に居を置き、その地方の事情を尋ねた。
言うには「遼東の南一千余里、東に柵城、南に小海、北に旧扶余に到り、民戸は前の魏の時代の三倍。
後に貢使が相次いで訪れ、毎年黄金二百斤、白銀四百斤を献上した・・・・たくさん略
その国、東は新羅、西は遼河を渡ること二千里。南は百済に接し、北鄰りは靺鞨、
一千余里。人は皆が土着し、山谷に沿って暮らしており、衣は麻布、絹織物および毛皮。
風土は、農地は痩せ細れ、養蚕農業は自給自足には足らないので、人々は食事を節制している。
その王は王宮の修築を好み、都城は平壤城、また長安城ともいい、東西六里、山の屈曲に沿い、
南は浿水に臨む。城内には諸々の器具を積んだ倉があり、寇賊の来襲に備え、四方の入口を固めて守る。
王は別に、その側にも居宅があるが、常に暮らしていはいない。
その外に国内城や漢城があり、これも陪都である。その国内では「三京」と呼んでいる。
遼東、玄菟などにも数十城あり、いずれも官を配置して統治を司る。
新羅とは毎度のように互いに侵奪をしあっており、戦争の止むことがない。・・・・・略
結論から言うと場所的なことはあまり特定されていない。
「都城は平壤城、また長安城ともいい、東西六里、山の屈曲に沿い、南は浿水に臨む。」
ここの平壌を現在の北朝鮮のピョンヤンと考えるともう救いようがない。浿水は「はいすい」つまり沛水。
鴨緑江としか考えれないのだが、「はいすい」は重要だから又別に検討しよう。
遼東の南一千余里はちょっと困る、が、東に柵城と小海。と言うところに注目してみよう。史記の朝鮮列伝に
「朝鮮王の滿とは、昔の燕の人である。燕は全盛期の初期から、真番と朝鮮を帰服させ、官吏を置いて、鄣(楽浪郡有雲鄣)
を塞いでいたことがある。
秦が燕を滅ぼし、遼東の外徼(異民族)を帰属させた。漢が勃興し、そこが遠方で守るのが難しいので、遼東の故塞(燕長城)を修復し、
浿 水までを国境とし、燕に属させた。」とある。
ちょっと見にくいが、矢印が二箇所ある。東に柵、南に海は恐らくここしかないであろう。
国内城、丸都城、平壌はすべて集安近辺にあり鴨緑江を南に超える事はない。つまり仮説の図に何ら問題はない。
問題は倭の場所である。「唐会要」の倭国伝に
「倭は古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏。・・・・略・・
新羅は平素から高句麗や百済を侵略し、もし危急が生じれば、倭王は宜しく派兵してこれを救う。
倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼の三国がある。いずれも倭に従属している。
北は大海が限界、西北は百済と接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相接する。」
中国の史書に日本が登場したとたん場所の説明が根本的に変わる。当然だろう。
倭国の位置に関し唐会要の表現ではまったくなんともいえないのだが、越州とはなんであろう。
また、北が大海とはどこであろう。正直なところ疑惑が広がって しまう。しかし、百済と新羅の場所がおおむね正しいとしたら倭の地域は限られてくる。
つまり、百済と接しているのだから。韓半島の南端までが倭国であるなら倭国は
大変に大きな領土となる。さらに、他に任那・加羅・秦韓・慕韓を韓半島内に納めなけれ
ばならない。そして好太王の碑は国内城周辺にあることから倭の所在地としては私の記した場所はぴったりではないか。
ところで、後漢書「鮮卑伝」に重要な事が記されている。このことをウイキペディアから引用しよう。
ウイキペディア「壇石塊」から引用。
檀石槐は膨大した国家に法令を定制し、その禁令・裁定を出した。各酋長達は、当然のように異議を出さず、
鮮卑はますます強大国となった。数年後に檀石槐は自ら親征し南下して幽州などの後漢の辺境に攻め寄せて、
人と財宝を略奪した。さらに、東方の扶余、西方の烏孫に遠征し、鮮卑の領土を全蒙古に等しい領土の拡大に成功したのである。
このことに危惧した桓帝は張渙を匈奴中郎将に任命し、鮮卑に遠征させた。だが張渙は檀石槐の見事な采配に大敗を喫して、
逃げ戻った有様だったという。そこで桓帝は下手に出て使者を派遣し、檀石槐を王に封じようとした。しかし檀石槐は
「俺は漢の奴隷じゃない」と激怒し、使者を追い返したという。漢の態度を知った檀石槐は、翌年に先年に侵略した幽州を初め、
并州の代・雁門に侵攻し、そこで人と財宝を略奪したという。以降も檀石槐は死ぬまでこれを続けたという。
檀石槐は肥沃な土地を求めて秦水方面に移動した。秦水は四方の河に分かれ、中に魚がいるものの
鮮卑には魚を捕獲する技術が皆無だったために、不可能だった。そこで檀石槐は一案を出して、
現地にいた倭人(または汙人)を奴隷として、魚を捕獲させ、食料難を解決したという。
秦水が現在のどの辺りかは確認はできないが、おそらく現在の北朝鮮に当たる地域だったと思われる。
引用おわり。
時代は卑弥呼の頃だから仮説の図よりはるかに時代は遡るものの、鮮卑が倭の領域に接近できる範囲は
そんなに広くはないだろう。
山形先生はこの壇石槐が倭人を侵略した事が倭人の乱の正体としている時期的にはちょうど西暦185年近辺である。
いくら鮮卑が行動的でもまさか対馬海峡を越えてまで倭人を人質に取りに来る事はあるまい。
少なくとも韓半島、北部もしくは中部までに倭人が存在した事は間違いがないと言う事だ。
よく引き合いに出されるものに、「山海経 海内北經」のなかに 「蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕」という一文がある。
これは大変に議論がある。
ひとつには、蓋國(がいこく)は鉅燕(きょうえん)にあり、南倭と北倭は燕に属す。というものだ。
これは私の好きな鹿島昇先生もこの解釈だった。(江戸時代はこのように読んでいたそうである。)
しかし、どのように贔屓目に見てもこの説は無理がある。鹿島さんは、邪馬台国が九州にあり、なおかつ、鮮卑が略奪した倭も韓半島北部に
あることの矛盾をこの文で解消しようとしたと思われる。
しかし、九州に倭がないとするなら、もうこの読み方をする必要はないのではないだろうか。
したがって、蓋國は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。と読むほうが無理がない。
この蓋國はなんだろう、鉅燕はなんだろうと言うと又話がややこしくなる。きりがない。
ここでは、山形先生の説を紹介しておこう。私にはそれが正しいかどうかの確信はありませんが。
「蓋国伝」に次のように記されている。
「蓋国、懿行、魏志倭人伝を案じていわく、「東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り。」後漢書東夷伝に李賢の注に同じく言う。
「蓋馬は県名、玄兔郡に属す。今、蓋馬を案ずるに、疑うらくは、もと蓋国の地ならん。鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」
鉅燕(きょえん)の鉅(きょ)は巨大の巨であり、意味は大に通じる。つまり「大燕」という。
戦国時代の北燕の意味だ。燕の昭王は遼河一帯を経略そして
一応の領域を遼河。渾河流域周辺までを称したらしい。そして、蓋馬はその領域の南、太子河以南の地に存在しており、
その南には倭があったわけだ。
中国の史書を引用するときりがないのであるが、日本伝が伝えられる頃からの倭国伝は明らかに表現が違ってくる。
中国の編集者は魏志の記述が誤っていることを知っていたが、国書である以上、否定することは憚れたのだろう。
だから、わざと字を置き換えてみたりすることで皮肉を込めているのだろう。
結論!
仮説をいまだに証明は出来ていません。まだ道のりは長いのです。でも若干の薄日はさしていませんか?
恐らくこれ以上は中国の史書では限界があると思います。
さて、任那、ほかについては現状では説明できそうな資料がありません。
今後、契丹古伝、日本書紀、三国史記などを解析し多少でもわかったことがあればお知らせしようと思う。
非常に長い論文で申し訳ない、これはむしろ引用集というべきかも知れない。
でも、自分なりに考えている倭国の位置を発表できた事で満足しよう。もちろん、今のところ仮説であり、確定ではありません。
なお、漢書の読み下しには堀貞雄さんのページ(堀貞雄古代史探訪館)から引用させていただきました。氏の努力を高く評価しここに感謝の意を表します。
本当に良くぞここまでやられたなと思います。