まえがき 歴史への遠い道のりへ

 これから長い道に踏み出そうと思う。最初はまず間違いのない事実関係を書き並べ、従来の歴史との整合性を検討してゆく事になる。正直に言うと結論はどのようになるのか今はわからない。又、終着点はあるはずもないだろう。本来なら終点を決めて順に書いてゆくべきだろう。だがしかし、同時進行も許されるのではないだろうか。と言うのもあまりにも情報がありすぎて整理が付かない。調べてゆくうちに又別の結論が出るかも分らない。そうです、私は自分の推理を固定化したくない。ある結論から逆にたどり推論を重ねる事は危険だ。例えば邪馬台国が九州にあるとするならそれを前提に組み立てて行かねばならない、途中でそれに反する証言が出てきた場合とりあえずそれを否定することに力を費やす羽目になる。私は学者ではないから自分の説にこだわる必要はないし、諸先生方の弁護もする必要はない。

だから私のやり方として、間違いのないすなわち反論が出来ない客観的な物のみを前提に積み上げなければならないと思う。

推論は絶対に必要だ、何故なら資料がすべて正しいはずがないからで、推論を立て、反証しあう事でその推論を真実に近づけることが出来る。

私の調査とこの本との同時進行もまた面白いのではないだろうか。

 

さて、伊勢神宮とはなんだろうか。誰もが日本の天皇家の総本山だと思うのではないだろうか。現地へ行くとその威厳に誰もが圧倒されてしまう。確かに何か日本人の心に訴えるものがある。ところが実際問題、天皇家が歴史にはっきりと登場したのは天武からだ。それ以前の天皇は実在したという確実な証拠はない。もちろん聖徳太子ですら実在するいかなる根拠もない。ついでにいうなら天武の近江朝も実在は疑わしい。しかし、もう少し進み、聖武天皇は確実に存在している。奈良の大仏は動かせない。ここで明らかなことは天皇家が仏教徒であった事だ。京都の泉竜寺で祭られている。なのに天皇家は神道の神様なのだからこれはダブルスタンダードになる。

ところで内宮に祀られるのはご存知、天照大神命さん。外宮が豊受大神命だ。これが分らない。片や日本書紀でも古事記でも主人公なのに、片方はほとんどお仕事をしていない。しかし、両者は対等であり切磋琢磨?してきた。さらに、其の本殿はどう見ても高床式のアジアン製ではないか。

我々は確実ではないながらも天皇家は韓半島から雲に乗って降臨されたものと思っている。でも、伊勢神宮を見ると間違いなくジャワ系もしくは福建省製にしか見えない。どうもこのあたりに日本の語られていない歴史がありそうだ。そして、伊勢の近くに斎宮がある。行ってみれば分るが発掘中の其の規模は大変なものだ。憶測だがこれは単に伊勢神宮をお参りするために天皇家の皇女を収容していたものではない。これはほとんど都の規模だ。むしろ、天皇家からの人質を住まわせていたと見るべきではないだろうか。始まりは天武朝の673年から1334年まで存在したようだ。その後、跡形もなく破壊された。ほんの七百年前まであったのに跡形もないとは何故だろう。平城京跡もそうなのだが、意図的に抹殺されたと見るべきだ。

次に外宮の豊受だが、これに関し、実は先日豊橋へ行ってきた。豊橋に邪馬台国があった、と言う本を手に入れたからなのだが、これが実に怪しい。

行って分る事は、邪馬台国があった証明はとうてい出来ないが、何かとても不思議な雰囲気のある町ではあった。ちょうど石巻山というのがピラミッドのような存在で、その昔、一大帝国があったことは間違いない。詳しくは別に述べるがちょうど三輪山に存在した王国と同じ、山自体を祀る信仰があったようだ。調べるとほとんどはスサノウ系の神社である。

地名自体が「豊橋」「豊川」、これは豊受と無関係とは思えない。

 

想像してみよう。天皇家が東征し、国を作る時に戦いがあった。お互いに休戦し妥協しようとした。条件は天皇家が統治するが先祖をお祭りするために三輪神社を伊勢に豊橋を外宮に対等に祀り、その人質を斎宮へお招きする。これで手を打った。どうであろうか。ついでに今後二十年に一度新築する義務を押し付けた。これなら天皇家と神宮の関係も分りやすい。

伊勢商人というのがあった。これは不思議な組織で全国を巡りお伊勢様の札を売り歩くのだが特産の伊勢茶、伊勢型紙、あわびなどを売り歩きながら一種スパイのように情報網を築いていたように見える。

伊勢神宮がキリスト教だという人もいる。だいたい神道とユダヤ教は同根と言う人もいる。ユダヤ人が伊勢に来ると皆ふるさとに来たようだと言う。

飛躍するが、伊勢の人は有名な失われたユダヤ十三血流の人達なのだろうか。これは一冊の本が出来てしまうので又別の機会にしよう。

はっきりしたい事は伊勢と天皇家はほとんど無関係ではないかと言う事だ。

豊橋のそばに額田郡というのがある、そう、あの額田姫の額田だ。何故か、八切さんが書いているのだが、「がくでん」と読まされたらしい。天智、天武が兄弟で(ウソだが、)争った額田姫が実在するとしたらこの額田の地名は無視できない。要はこの姫を嫁にしなければ日本は手に入らなかったと言う事だ。

つまり、その当時の王朝は女が支配しその女をめとった者が王様(大君)になる資格があったのじゃないか。

 

順序をはっきりさせよう。日本の成立物語だ。

最初に言わなければならないことはこの話は宗教じゃないから最初に大地があり神が何かをお作りになったと言う話ではない。どこにも人間が住んでいただろうし、営みがされていた事は間違いがない。だからあるとき何処かから何かがやってきた場合、当然争いがあり征服したものが残ったと言う事だ。

では、時代もまだ漠然として考えよう。話は出雲から始まる。出雲には北朝鮮とロシアの接するあたりから原始人たちが海流に乗ってやってきた。この人達は銅器を持っていた。スサノウ系としよう。次に中国方面からこれも海流に流され日向あたりに部族が着いた。これは天照としよう。遠くイラク方面からタルシシ船で交易をしに来た人達がいる。(この人達は鉄器をもっていた。)これは宇佐もしくは博多方面に着いた。この部族は良く分からない。一応八幡としておこう。この時点では韓半島は考えに入れない。何故なら話がややこしくなるからだ。

出雲系は九州征服と大和地方へ進出した。大和を征服しこれが三輪王朝となる。九州はスサノウ系と八幡系と天照が戦った。これは天照と八幡の連合軍が勝ったのではないか。

その後、九州から連合軍が東征し勝利する。三輪王朝は負けて各地をさまよう。連合軍は奈良で王朝を立てる。さまよっている三輪王朝のナガスネヒコは東北へ逃げた。一族のうち皇女は豊橋に逃げて豊橋王朝を作る。

 

さて今度は韓半島に行こう。実は百済の歴史の半分は天皇家の歴史だ。

だから日本書紀のうちいくつかは百済の話なのだ。

百済は高句麗から分かれた。そしてその高句麗は扶余から出ている。

扶余は現在の奉天と言うより瀋陽あたりにいた部族だ。

つまり、今の遼東半島の北西が出発点になる。この百済が後に新羅と唐との連合軍に大敗する白村江の戦いがある。

ちょっと乱暴な話しになった。これらの証明は楽じゃない。後でゆっくり説明をしなければならない。

 

ここで重要なのは、邪馬台国が何処かへ行ってしまった。これを説明しないと歴史書にならない。

結論から言おう。邪馬台国は、すなわち倭の国は日本じゃないのだ。韓半島の歴史なのだ。日本の歴史捏造の最大のポイントがまずこれだ。

倭を日本とする根拠はない。錯覚なのに歴史学者が束になって倭を日本と思わせるように仕向けた。だから正式な歴史書には邪馬台国が九州にあったとか、大和にあったとかを断定していないはずだ。断定するとうそを書くことになる。よく覚えて欲しいのだが、国書、すなわち国定の歴史書はウソはつけない。都合が悪い時は書かない。あるいはごまかす。地名をごまかす、日付をごまかす。等で責任を取らない。今の官僚たちと同じだ。)うまく逃げているだけだ。よく見て欲しい。九州とか近畿地方だとか論争されている。と逃げている。しかし、日本の中にあることは否定はしていない。これが捏造のポイントである。このやり方は昭和になりユダヤ人学者の指導のもとで行われたのだろう。

この件も後で特集しなければ納得してもらえないだろう。

要は新羅が大きくなるにつれ、倭と百済が負けたのだ。これで新羅が韓半島を支配した。その勢いで九州に上陸した。大宰府へ。このとき始めて日本が誕生したと考えられる。これが天智天皇で近江政府は大宰府にあったと思われる。

その後、壬申の乱で日本を征服し難波朝を作った。

これはだから新羅と唐の連合軍だ。この後、唐と新羅は仲が悪くなり唐は衰退してゆく。

「法隆寺は九州から移築された。」という本を読んだ。はっきり言って十分に理解できなかった。しかし、その可能性はきわめて高い。(八切氏は出雲から移設したという。)

つまり九州を制圧した日本が大和を征服し飛鳥に移ったと考えられる。つまり、大化の改新は幻なのだ。本当を言うとこれも正しくない。実は百済時代の出来事を日本に地名移譲したのだろう。

飛鳥へ移る頃に従来勢力との合併交渉があったと考えられる。

飛鳥浄御原宮に都を移し大陸式の都を作ったはずだ。

この後、藤原京で持統・文武・元明三代続く、これが実在することは間違いない。

ただし、伝統的に都が変わるときは政権が変わるときだ。もうひとつ、神宮が出来る時は政権が変わるときだ。

平安神宮は政権が変わった。明治神宮も政権が変わっている。と言う事は飛鳥、藤原、平城は政権が変わっても表向きは変わっていないと言う事か。

このあたりのことは大きな意味はないと思う。

その中で聖武天皇の時に渤海から使者が来ている。渤海は高句麗滅亡の後、靺鞨大祚栄によって起きた国である。建国は698年と言われる。この国と日本が本枝の関係だと先方の使者が親書を持ってきた。天皇は大喜びで接待し土産物をどっさり渡し、以降契丹が遼国を興すまで親交を深めている。問題はここだ。

靺鞨部族とは、ウィキペディアから調べてみよう。

靺鞨(まっかつ)とは、中国の隋、唐時代、勿吉(もつきつ)の表記が変化したものと考えられる。以下に記すように単一民族集団ではない[要出典]。靺鞨の中では、次の7部が特に強大であった。(現在の地理との同定は諸説あり、下記の例はあくまで一説である)

 

粟末部 - 現在の吉林市

白山部 - 粟末部の東南、現在の吉林省敦化、延辺

伯咄部 - 粟末部の北、現在の拉林河流域

安車骨部 - 伯咄部の東、現在の依蘭県以東

拂捏部 - 安車骨部の東

号室部 - 拂捏部の東、現在の綏芬河流域

黒水部 - 安車骨部の東北、現在の同江から伯力までの黒龍江両岸

上記7部の外、思慕、郡利、窟説、莫曳皆、虞婁、越喜、鉄利のような小部族が、外満州(現在の黒龍江以北とロシア沿海地方)に居住していた。総じて言えば、靺鞨は、高句麗に服属し、後に高句麗遺民と共に渤海を建国した南の粟末靺鞨と、後に女真族となり金国、清国を建国した黒水靺鞨に二分される。(以上引用終わり)

要は現在の吉林省界わいにいた部族集団である。この部族と日本が本枝の関係とはなんだろう。

これが真実なら少なくとも天皇家の出自が明らかではないか。

そして、桓武天皇のときに秦氏の支配する平安京へ遷都し、平安神宮を造ったと言う事は完全に政権が変わったことになる。その前の長岡京も実は変わっていた可能性がある。遷都は大変な費用がかかる、たった十年(784から794)で都を移すのは異様だがちょっと調べようがない。

この桓武の生母、高野新笠が百済王の子孫である。これは平成天皇が宣言したのだから間違いはない。

このときから百済系の天皇が始まったのだ。これ以降天皇家の血は足利義満の頃まではたぶん保たれている。

私の研究はこのあたりの時代で一区切りしよう。これまでの内容で十分以上の研究課題が出てきている。すでに研究された先人で反論の余地がないものはそれを利用し疑わしいものは指摘し解明できるものなら解明したい。

 

ただし、いま別に研究しているシーグレイプ氏Goldwarriorsに関連し、ずいぶん昭和史の怪しげな点が明らかになってきた。例えば、天皇は戦争を望んでいなかったにも拘らず軍部の強い圧力でやむを得ず戦争を許可した。この点。そして最近発売された鬼塚さんの著書「日本で一番醜い日」で明らかにされたのは、終戦の日のクーデターがやらせだったこと。

あるいは、YamatoDynastyでもはっきりした事は天皇家が戦争で大変に裕福になったこと。などなど、昭和の歴史の捏造のほうがはるかに悪質で、かつ我々の生活にかかわっている。

だから古代史も正さなければならないが、必要に応じて現代史の書き直しもしていかなければならない。今述べた項目は後で個別に展開することにしよう。

****研究室に戻る*****

 

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